≪◯ 兵庫県小野市 ◯≫

兵庫県中南部にある’小野市’の今に住む

兵庫県の中南部・東播磨のほぼ中心に位置する市で、日本標準時である東経135度の子午線の通る位置にあります。
即ち、東端が東経135度02分(市内中谷町)、西端が東経134度53分(市内福甸町)、そして、南端が北緯34度48分
(市内樫山町)、北端が北緯34度54分(市内復井町)、県庁所在地の神戸市には約30km、姫路市には25kmであり、
主に、両市のベットタウンとしての機能を持っている。1970年代から宅地化が進められた。人口は約4万9千7百人
(人口密度534人/ku)の伝統工芸都市である。ここでは兵庫県で有数の伝統工芸品として知られる’そろばん’の
生産地(全国シエアの70%)で有名である。また、家庭用刃物が伝統的特産品。隣の三木市と共に金物生産地として知られ、
播州鎌は兵庫県の伝統的工芸品に指定されている。市域中央部を加古川が南流する。また、山田錦を中心とした米作りや、
山田錦の粉を使ったパン、菓子、麺等の生産、小麦(ふくほのか)を開発・登録し、麺製品などの商品化が進められている。


イラスト(兵庫県) : 兵庫県小野市の位置
案内図

小野市の周りには、加古川市・加西市・三木市・加東市があります。

近世の歴史を見ると、小野藩の藩主・一柳氏は本姓は越智氏。伊予国(愛媛県)の河野氏の庶流とある。河野通直(弾正少弼)
の子宣高が美濃国厚見郡西野村(岐阜県岐阜市)に移り、土岐氏の家臣になって一柳氏を称したという。「一柳」の家名は、土
岐氏が宣高を招いた蹴鞠の場で鞠庭の柳がひときわ鮮やかであったことが由来とされる。宣高の孫の一柳直末・一柳直盛兄弟
が豊臣秀吉に仕え、兄の直末は美濃国の軽海西城主となったが1590年小田原征伐のときに、緒戦の山中城攻めで戦死した。
弟の直盛は尾張国(愛知県西部)黒田城3万石の領主となり、関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢国(三重県)神戸藩5万石に加
増転封された。更に1636年には伊予国西条藩6万8600石に移転したが同年死没した。彼の遺領は直重・直家・直頼の3人の
息子たちによって分割された。長男の直重が西条藩を継ぎ3万石、三男の直頼が伊予国小松藩1万石を分与されている。二男の
直家には伊予国宇摩郡・周敷郡内の2万3000石を分与され、播磨に領していた5,000石と合わせて2万8000石の領主となった。
当初は伊予国宇摩郡・周敷郡内で川之江藩を立藩、播磨国加東郡の領地を分領とし、王子村敷地に代官所を設置して管轄した。
1637年に、直家は播磨国加東郡の代官所を陣屋とし、藩主以下家臣が川之江から移住して、ここに実質的に小野藩が成立をみた。

1642年、初代藩主、直家は嗣子無く没し、丹波国園部藩主小出吉親の2男直次を直重の女婿として迎え、
嗣子として幕府に願い出た。しかし、当時は末期養子が認められなかったため、伊予国にあった所領は
没収されて天領となり、遺領相続という形で直次に播磨国加東郡内1万石を与えられ、2代目藩主となる。

・ 歴代藩主:(初代から11代までの歴代の各代と藩主名)
 一柳家 (外様大名 2万8千石→1万石<1636年〜1871年>)
 1):直家@、2):直次A(遺領相続により1万石)、3):末礼B、4):末昆C、5):末栄D、
 6):末英E、 7):末昭F、 8):末周G、 9):末延H、  10):末彦I、 11):末徳J、
なお、11代藩主は末徳J。末徳のもとで幕末を迎え、一柳家の最後の藩主となった。

その後、幕末から明治を迎え、
           明治4年(1871年)、廃藩置県により小野県となり、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。

現在:兵庫県小野市(なお、県庁所在地は、お隣の神戸市です。)

               
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